司法書士はじめ物語 第1話

  司法書士はじめ物語 第1話

 

文責 司法書士 安沢吉昭

 

この物語をはじめるに際して、司法書士制度の前身は明治5年に太政官無号達司法職務定制にある「代書人」に始まると日本司法書士史に書かれていますが、江戸時代にも似たような仕事があり、これが「司法書士のはじめ」と思い、ここから物語りをはじめさせていただきます。

 なお、すべての歴史を精査しておりませんので、間違いがありましたらお許しください。

 

1.はじめに(江戸時代の民事訴訟)

 江戸時代でも今と同じように、お金の貸し借りなどで縺れ(もつれ)がありました。 今であれば、裁判所に訴訟を起こし、その判決をもらって、相手の財産を差し押さえるなどの方法をとっていますが、江戸時代(元禄時代1680年ころより)ではどうなっていたのでしょうか。

 

 ここで、注意するのは、武士が貸し主となる金銭に関する(大名家家人・旗本・御家人などの支配階級を示し、浪人は太刀を手挟(たばさ)んでおりましたが、身分は庶民と同じでした)民事訴訟を認められていませんでした。理由は、武士同士のお金の貸し借り自体「武士にあるまじき行為」として、もしそのお金の貸し借りがわかると、切腹、解雇などの非常に厳しい刑が与えられました。但し、武士が借り主となる庶民とのお金の貸し借りは日常のように発生しました。

 ただし、江戸時代の後期になると武士で小金を持つ者が隠れて金貸しをしたとの記録はありますが、あくまでも「隠れて」お金を貸したのでしょう。

 

 さて、本題の庶民(農・工・商)同士のお金の貸し借りですが、江戸の町とそれ以外の地域では若干取り扱いが変わりました。

 

 江戸の町ではどうだったのでしょうか。

 

 江戸の庶民は、お金の貸し借りで縺れがあった場合、貸し主は、町役人(名主・家主(家の管理人)・書役など)と連名で訴状を作り、町奉行所に訴えを起こします。

 このように貸し主一人では訴えを起こすことはできませんでした。

 

 さて、町奉行所は民事訴訟をどのように取り扱っていたのでしょうか、これについては、基本的には「お上の慈悲にもとづき受理している」との基本姿勢であり、決して今の裁判所の様な「法に基づいて」とは基本姿勢が異なります。 

 訴えを町奉行所が受理した場合、相手方(借り主)に御差紙(おさしがみ)が届けられ、この御差紙には、いついつ町奉行所に来るように、そして来るときには町役人同道し、もし来なければ罰する旨の文言が記載されており、江戸の町に暮らす庶民(注1*人別を持っている)は必ず町奉行所の出頭しました。

 

 なお、お金の貸し借りの場合、お金を返せない者、なんらに言い訳をする者は手鎖(手錠)をされ、町役人の家に監禁されたり、もしくは自宅で手鎖をつけたまま生活し、毎日もしくは数日おきに町役人に手鎖がついているか確認を受ける必要がありました。

 その借金は江戸後期に入ると、相対すまし(利息を免除し5年割賦弁済など)が見られましたが、その前は、財産を処分しても返済ができない場合は、江戸所払いなどが言い渡されていました。

 

注1 江戸の町に住むのは人別が必要でした、この人別、正確には宗門人別帳と言い、本来の目的はキリスト教を排除するため、すべての庶民は住む場所の寺にその檀徒である旨を届け出る必要があり、今で言う戸籍原簿や租税台帳の役割を持っておりました。

 この人別が無いと、住むことも、働くこともできない事となっておりました。

 人別の無いものはいわゆる「無宿者・非人」として、居住の制約を受けるなど不利益を受けました。

 

 以上が江戸の町の庶民の民事訴訟ですが、江戸以外の町の人はどのような民事訴訟をが行われていたのでしょうか。

 

 基本的には江戸の町の庶民と同じですが、決定的に違う点は、訴えを町奉行所でななく、領主(大名)の陣家(陣家も近くにあるケースが少なかった)もしくは領主が旗本場合その旗本の屋敷(江戸の町に住んでいます)に訴えを起こすこととなります。

 

 関東地方の場合、大きな大名は水戸藩・高崎藩など数が少なく、天領(徳川家領地)

旗本の領地が入り組んでおり、ある村では10人の領主が相給(税を10人の領主で割り振っていた)の領地があり、お金の貸し借りで、貸し主の領主がA旗本・借り主の領主がB旗本などの場合も当然のようにありました。

 

 この様に、貸し主と借り主の領主が相違している場合、貸し主が訴えを申し立てる場合、江戸の勘定奉行所に訴えることとなります。

 

 勘定奉行とは、江戸幕府のお金の出し入れ(現在の財務省)の役割の他、江戸の町以外の幕府直轄領の支配を司った。評定所においては関八州の内江戸以外の訴訟も担当していた。

 

 江戸中期よりは、勘定奉行(通常4名)の半数は勝手方勘定奉行(財務省大臣)と半数は公事方勘定奉行(関東地方の警察と評定所の構成員として裁判所の機能を持っています)とに分かれておりました。

 裁判を行う者を公事方勘定奉行と言われ、評定所(寺社奉行・勘定奉行・目付、時より老中により構成)の構成員の一人として裁判権を持っておりました。

 

 なお警察権を行使する場合は、八州廻り(正式には関東取締役出役)を利用し、天領・大名の領地、寺社の領地、旗本の領地のすべての場所で警察権を行使することができました。

 しかし現実には、大きな大名の領地では遠慮があり、警察権の行使は難しかった(立ち寄らなかった)ようです。

 捕まえた犯人を江戸の護送し、江戸で裁判(お仕置き)がされました。ただし、八州廻りは代官所(勘定奉行支配、全国の天領に点在)の手代・手付(御家人・町民)より10名程度選ばれたのですが、たった10名で関東地方全部の警察を行うのは至難の業のようでした。

 

 さて、話が膨らみすぎましたので、本題の庶民の裁判について話を戻します。

 庶民が領主を異なる相手に訴え(裁判)を起こす場合、江戸の赴き裁判を起こすこととなりますが、江戸以外の庶民が江戸の町に旅をする場合、泊まる宿の制限がありました。

 

 江戸時代でも江戸中期以降は、庶民の旅行は頻繁にあったようです。

 それでも、江戸の町にどこにでも宿(やど)(いまの旅館・ホテル)があったわけでも無く、元禄時代以降に少しずつ宿が町奉行所の公認のものとして増えてゆきましたが、町民が泊まれる宿とお百姓が泊まれる宿などの制限があり、それ以外の宿には泊まることができませんでした。

 

 このなかで、特に裁判のために江戸に来る者が利用したのが「公事宿(くじやど)」として現れてきました。

 

 さて、公事宿はなぜ現れてきたのでしょうか。それは、裁判手続きの煩雑さにありました。

 公事宿は、庶民が勘定奉行所(ケースのよっては寺社奉行所)へ提出する願書や証文(証拠となる文書)訴状などの書類の作成・清書・手続きの代行やあたかも弁護人の様な役割をこなしました。

 他にも、御用状や触書、差紙などの奉行所から出される公式文書を町村への通達、手鎖をかけられた未決囚の宿預も行いました。

 

 このように、公事宿は奉行所と庶民との公事訴訟の手続きが円滑に行われるように、仲介・取次をする役目も担っておりました。

 また、幕府(奉行所)は逗留する訴訟人(公事訴訟を起こした者、その相手方)の監視の役を公事宿に担わせ、訴訟人が使用で外出する際の行先確認を義務づけ、宿泊したことにして店借(宿以外での長屋でで住む)することや縁者等の元に身を寄せることを禁止しました。つまり公事を行う者は公事宿以外での宿泊を禁じておりました。

 

 それ以外にも奉行所での諸々の手続きにも公事宿は関わっておりました。

 

 今の司法書士は裁判を進めてゆく場面では公事宿と同様な職務を行っており、これが「司法書士のはじめ」と執筆者はかってに思っております。

 次号以降の場面で「司法書士茶屋」という言葉がでできますので、再度お話しする機会があると思っております。

 

 最後に雑談ですが、お金の点から見れば、江戸時代の公事宿は宿賃が一泊2食つきで248文と定められており、お風呂も無く、入りたければ近くの銭湯に行くしかありませんでした。もう少し宿賃を払うからサービスをよくしてと願ってもできませんでした。

 

 また、公事訴訟には村から町役人を同道する必要があり、その全員の途中の泊まり賃、食事代、公事宿の宿賃すべてを訴訟人が負担するため、奉行所の判断が三ヶ月かかると最低25両近いお金が必要となります。

 江戸時代の庶民の一家族の支出が月1両あれば充分な時代に25両近い支払いは今で言えば、500万円を超える訴訟費用が必要でした。

 

 このため、お金を借りた者が勘定奉行所から御差紙を受け取ると、町役人を同道し勘定奉行所に赴きますが、時間のかかる訴訟をするわけもいかず、すぐに返済をするという事になったようです。

 

 万一、訴訟人が公事宿の宿賃の支払いを滞った場合、同道の町役人(もしくは町村)が弁済する義務を負うこととなります。

 

 江戸時代の訴訟はお金持ち以外は利用されなかったのでしょうね。

 それ以上に庶民と町村とのつながりが強かったと認識しております。

 

 次号をお楽しみに願います。